0426 3年ゼミ課題
お題:
『人間とは何か』の老人の立場は、「どのような行為も、結局は自分のため、自己満足のため、自我の統一性を守るためのものだ」と考える立場で、このような立場は「利己主義」と呼ばれています。利己主義によれば、どれだけ他人のために見える行為(例:火事場で取り残された子を、通りすがりの人が身を挺して助ける)も、結局は自分自身のための行為にすぎません。たとえ本人が、どれだけ他人のためだと思っている行為でも、それは単にそうした善い行為をしない自分が許せないとか、他人を助けるような善い人間としての自己イメージを守りたいとか、好きな相手の悲しむ顔を見たくないとか、結局のところは自分のための行為だからです。
ところで、この利己主義が正しいとすると、われわれの倫理や道徳もそのほとんどが無意味なものになってしまうのではないでしょうか。利己主義を認めてしまってよいのでしょうか。
そこで、次の問いに対して自分なりの考えをまとめておいて下さい。
① 利己主義についてどんな感想を持ちましたか?
② その理由はなんですか?
③ 利己主義は正しいと思いますか?(正しいと思う場合、利己主義を認めてしまうことでわれわれの倫理や道徳がどうなるかも述べて下さい。正しくないと思う場合、なぜ正しくないかの反論を述べて下さい)
1.
利己主義による行動が結果として他者のためになる事もあるのであれば、主義の部分に価値はないと感じた。
あとは、「愛」について思いを巡らせた。
2.
利己主義でも動機はなんであれ他者のために行動はできる事が事例から確認できている。
他者のために行動を起こせるのであれば、動機や過程はさして重要ではない。
さらに結果も伴えば言う事なし。たいへん喜ばしいことである。
また、宗教哲学的にも、信仰と行為義認から説明できる。
利己主義であっても信仰は持てるし、善行という行為も同様。
だから利己主義が動機にあれど、信仰を持っていて善行を行うことにより神の御前で義と認められる。救われるね。
ただこれに問題があるとしたら、行為義認ではなく信仰義認が根底にあるプロテスタントとか一部のクリスチャンにとっては影響あるのかなあ。
いや、信仰に見返りを求めちゃいかんなんてないよなあ。あれ、ルター派はどうだっけ…?
とりあえず、少なくとも愛には無償性求められてるとこあるよな。
じゃあ利己主義からは逃れられないとすると、無償の愛は存在できない(か?)し、まずくないか?←いまここ
3.
利己主義の存在は否定できない。だが、それが最上位の動機付け要因ではない。
最も強い要因は生存本能によるものだ。
人類は他の生物同様、種としての生存に魂を引かれた存在である。
自分のための行動も、まずは自分が一個体として生存しやすい状況へ進むために選択している。
その例外であるように見える他者のために行う行動だが、そちらもやはり大部分は生存本能による行動で片が付く。
例えば働きアリのように、集団を形成する生物の中には他者のために存在している生物が少なくない。
人間もその一種であると考えられる。集団の利益を優先することで人類という種全体として生き残る確率を上げようと無意識に選択する生物なのだ。
ここまで来ても、個人・集団どちらの損得で考えても説明ができない行動は存在する。
だが、これは動物が快不快から行動を選択することから説明できる。
生物は生存に適した状況を快としてそちらへ進むが、これには経験による後天的な教育も大いに影響する。
つまり、帰属する集団の善悪・妥当性の基準を幼児期の共同注意から始まる教育によって人類は学習し、それをもとに快不快を判断して行動しているのだ。
この、快へ引かれ不快を避ける行為は、もとをただせば生存本能によるものだ。
利己主義にもとづき自己実現のために行動していると主張したとしても、結局はすべてが生存本能に従って行動していると言える。
以上のことから、人間は利己主義ではなく生に支配されていると言える。
ともあれ、利己主義でプラスに働く場合はいいけど、戦争のような大きな過ちが起きるのであれば利己主義に則ってでもいいから誰かが止めないとね。
「もし王様が戦争を始めようとしたら、母親が出かけていって断じてとめなければなりません」
アンリ・ルソー