ポエム
田村先生の『表現する力をきたえるプログラム』で自己分析として一部納得できる表現が出来たので投稿。
要約すると、自分は「成長」もしたいんだけど、それは「他者を救済する」ためにやってるとこあるよなあ、って感じ。
そこが抜けてると多分続かないわ。
以下その自己紹介。
『おれってやっぱりアクター』
私は生まれついてのアクターだ。
幼少期、私は常に他人の目を意識して生活していた。
勉強をするにしても、スポーツをするにしても、その場においてどういう人格が求められているのかを考えずにはいられなかった。
当初、何が相応しいのかどうかは、歓心を買えるかという点だけに向けられていた。
そんな私に転機が訪れた。
私がしたことに誰も責任を取らないし、取ることもできないのだ、ということに気づいたのだ。
それからの私は自分の心の中へ深く深く進んでいくようになった。
それは同じ『私』という物語の中で、表舞台から降りることを当時私が決意したことを意味している。
私はアクターであることをやめたのだ。
そんな時だ。私が一人の人物に出会ったのは。
彼はさながら新興宗教にのめり込む哀れな人々のように、完全に目が曇っていた。
そんな彼と行動するうちに、私は言いようのない感情を覚えたのだ。
侮蔑、慈愛、悔恨、様々な感情が入り乱れていた。
なぜ私はここに居るのか、私は彼を救うことができないのだろうか。
それまでも自身の存在意義については幾度も問いかけていた。だが、そこへ新たに救済という要素がここで加わってきた。
そして、幾度も逡巡を繰り返したが、私は自分のスタンスを決めた。
それは、ノブレス・オブリージュにもとづいて、再びアクターとして舞台に上がりその言動でもって多くの人々を救うことこそが私に課せられたdutyである、というものだ。
やはり、私はアクターだったのだ。
私は、中学校以来のキャリア選択におけるメインストリーム、大学へとやってきた。
そこはより広いつながりと演じる機会を私にもたらしてくれるだろうという期待のもとに。
はたして、大学生活は私の求めていたものを提供してくれた。
そこから得られた学びは確実に血肉となり、アクターとして人々を救う助けとなるだろう。
さて、ここで終われたらよかったのだが、現実はそうもいかない。
私はその場に必要な人格を演じてきた。
だが、周囲の求める人格と、その場に必要だと私が思う人格に少なからぬ開きが出てきてそれが次第に無視できなくなってきたのだ。
今からでも羊の皮を被ろうか。この爪や牙を隠し通そうか。
腹をくくったはずなのに、スタンスを貫き通すことに迷いが生じた。
このままでは演じ続けることはできない。
そう鬱屈した日々を過ごしていたが、この試練は思えばあっさりと終わりを迎える。
成功や成長の快感がまごつく私の背中を蹴飛ばしたのだ。
私のdutyへうまく取り入った彼らは、私に立ち止まることを許さなかった。
私はアクターであらねばならないのだ。
これから私は何度も障壁にぶつかるだろう。
しかし、その度に彼らが現れて言うに違いない。
おまえはアクターとして人々を救うのだろう、と。