キリンさんチームin東京
11月29,30に東京へゼミでまた行ってきた。
前回の東京withゼミでも乗馬クラブや美術館に行けたけど、今回もなかなか濃い内容だった。
以下、感想を。
今回はプレゼンが30日に入っていたから、前日入りして上野でルーベンスとフェルメールに会ってきた。
まずは上野にある国立西洋美術館で行われていたルーベンス展から。
ここら辺の絵画が特に好きだった。
『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち』はギリシア神話、
そして『キリスト哀悼』は新約聖書に取材しているルーベンスの作品。
うんちく的には、例えば『エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち』では3人の娘たちがそれぞれ顔の向きが正面・斜め・横だったり立ち姿も3種類あったりと、ルーベンスが考える美しい女性を表現しつくしたところに見所があったりする。
そして、このみずみずしい肌からは想像が難しいけれど、構図などは古代の彫刻を、つまり大理石で表現したものを最高の模範としていることもルーベンスの特徴らしい。
ルーベンスはその理想的な肉体美を劇的なシーンにうまく再構築していて、1枚1枚とても見応えがあった。
『キリスト哀悼』もそう。理屈よりも先に、一目見た時に心が騒いだ。
次は、同じく上野の上野の森美術館で開催されていたフェルメール展。
フェルメールだけではなく、ヤン・ステーンの作品も非常によかった。
床に食器を散乱させるほどらんちき騒ぎする大人たちと、それを見本としてテーブルに立つ幼子など、「この親にしてこの子あり」とでも言うように皮肉たっぷりに人間の滑稽さを彼は描ききっていた。
フェルメールの作品はどれもこれも想像を巡らすことができて面白かった。
例えば『手紙を書く婦人と召使い』では、床にある手紙を投げ捨てられた手紙と捉えるか、でもそれなら開封後に使うことのなさそうな隣にある黒いスティックは何を意味するのか?だとかがそう。
無駄なものを完全にそぎ落としたフェルメールの舞台であるからこそ、何かに気づけばそこに込められているはずの意味を考えてしまう悩ましくも有意義な時間だった。
アートの面白さって、自然と一緒で言葉や風習やらを通り越して心に迫ってくるものもあるけど、
込められた意図をああでもないこうでもないと考えるところにもあるよなあ。
そして、それは鑑賞者側の面白さであって、クリエイター側からするとまた違う面白さが当然あるんだろうな。
これは想像にすぎないけど、要素をどう配置していくかを想像する、表現・創造する喜びだったりが彼らにはあるのかなあ。
想像、創造言って、騒々しいやっちゃな。
おあとがよろしいようで。