0713 3年ゼミ(音楽回)と長崎旅行の感想
3年ゼミ「視野広げてみようぜ」定期、今回は「音楽」を体験しに長崎へ。
長崎がええ街やったから後で共有したいけど、まずは音楽回の振り返りから。
講師の西田さんが言ってた「他者の表現を自分の表現と同じように尊重する」ってやつ
なんかどっかで最近聞いたなあと思ったら、そうや旅回で嶋田さんが言ってはったな。
音楽にしろ旅にしろ、行為により多くの意味を求めたらそこに行きついたんかなあ。
なんにせよ、それ以外にも様々な意味付けができるんだろうけど、
ひとつの意味付けに「相互理解」が出てくるような人々と接するのは気持ちがいいね。
次に感じたこととして、音楽を含めた芸術の力があるなあ。
正直なところ、平和なご時世や心身が健やかな状態でなければ、高尚な「ムダ」は楽しめないと思っている。
けれど、審美性を度外視して感じることに重きを置いた場合の音楽やらには
どんな自身がどんな状態であれ感じ入るものがあるんやないかなあ。
フラれて心がすさんでた時にQueenの『Love Of My Life』で涙したもんなあ。
今回も目つむってトーンチャイムの音色を聴いてたら、脳内の暗い水面に波紋が浮かんでは消えていったりして。
音楽含めた芸術にはマジでプリミティブなとこに直接訴えかけてくるもんがあるんやろね。
それを西田さんはSoundscapeについて取り上げて話されていたけども、
おれ的にはMindscapeとでも呼ぶようなものを芸術を通して感じているんだろうなあ。
あとは、音楽とはあんま関係ないかもやけど、子どもにどんな問いかけをすればいいのかについても考えさせられたなあ。
「子どもからハッとさせされる場面がある」とよく目にしたりするけど、そこのケーススタディがええんかいな。
自分もそういう姿勢で臨めばええやん的な。
それ抜きにしても、こういうとこに結構「揺さぶられ」のヒントありそうなんよなあ。
ってな感じのことを考えてた音楽回だった。
「感性をとぎすませ!」とまではいかんゆる~い感じだったのもわりとよかったなあ。
次は、どっちがついでか分からん長崎旅行!
ぶっちゃけここに来るためだけに長崎行った感ある。
隠れキリシタンが~とか世界遺産に~とか色んな文脈があったけど、
シンプルに美しいから好き。What a beautiful place...
長崎市内から車で1時間くらいで着くからおすすめ。
他にも色んな教会や26聖人殉教地、中華街やら色々行ったけど、心に残っているのはここ。
唐風の趣あるねえってくらいで、べつになんてことない公園。
でも、そこに居る人たちがええねんな。
こんな風に将棋を指したり、それを観戦するおっちゃんたちが3組は居た。
こんなのモーストええ街やん。
ベリベリハッピーよ。
また来るぜ長崎!あばよ!
AIコミュニティ(仮)第2回の感想
前回はこれ。
今回は、各々が興味ある分野から調べてきたものや感じたことを共有しあった。
この記事では、その中で出てきた話の中で自分が感じたことを書いておくかな。
まず1つ目、「AIだなんだの前に、そもそもサービスビジネスにおいて顧客との接点ではどんな価値が生まれるんだ?」ってやつ。
なんとなーく、AIやロボティクスが発展してバックヤードの業務が最適化すれば、最も価値を生み出せる対人のポイントにリソース集中できるよなあ、と思っていた。
だけど、ファストファッション業態のアパレルなんかはちょっと違うよなって。
接客うぜえ瞬間は間違いなくあるし。
もちろん、床屋さんや外科医みたいに、「機械より人間にやってもらいたいなあ」とかの感情面から導入が進まんとこもあったりする。
そんな感じだから、当然と言えば当然だけど、各ビジネスモデル毎にAIらは特殊解的に導入されていくんだろうなあ。
大きく考えられるところと小さく考えないかんところ、もっともっと小さく考えないかんところってな風にしっかり分けてかないかんのやろな。
2つ目は、「AIが書いた絵に価値あんの?」ってど真ん中直球なやつ。
「AIが書いた絵に43万ドルの値がついたからあるでしょ」って話で終わらせちゃいかんねこれは。
このままの問いでは少し漠然としすぎているから、少し条件を絞って考えてみる。
「絵画を描かない鑑賞者は、絵画に何の価値を見いだせるのか」で考えてみよう。
これに対するおれの考えは、「投機的価値」「資料的価値」「娯楽的価値」「フレーム価値」があると思う。
「フレーム価値」ってのはあれや。
例えば、ある人たちは宗教画を見ている時、絵を見ているだけでなく自分の信仰やあり方をそこから見ていて、そうすることでGodheadの存在を感じていたりする。
それは別にそいつがアブねえって話じゃない。
絵画が持つ情報量を考えると、絵画に込められた情報をフレームとしてそっから何を考えるのかは鑑賞者次第でいくらでもあるのは当然のことや。
もともと絵画は、美術史をはじめ、主題や描かれたものに込められた意味、類似作品、同時期や前後の絵画、作者の経歴、絵画の来歴、注文者などを知っていれば物質としてそこに存在する情報量とは比べ物にならないほどの情報を持っているからね。
それらの人それぞれの価値をひっくるめて、 「フレーム価値」とおれは名付けた。
で、それらを考慮した上で件の「AIが描いた絵に価値あんの?」を考える。
考える。考えたけど、まだわかりませんわこれ。
けど、おれの中では確かに価値がある。
だって、「AIが絵を描けるようにプログラムされ出力できた」ってだけで絵画の持つ根源的な価値や感情・感性といったものらについて考えるきっかけになったんだからね。
もうAI様様よ。ほんと退屈しねえぜ。
AIにまつわる責任問題の話とか、まだまだいっぱいおもろい話があったけど、とりあえずこんな感じやった。
たいへんおもろくてよかった。
さて、次のテーマは何にしようかねえ。
最後に、その日自分が使ったスライドの紹介。
「アート」「子育て」「宗教」をテーマに取り上げ、現在行われている取り組みを中心に共有したよ。
ちなみに、このスライドはAIを用いている「Beautiful.ai」てやつを使って作った。
これすげえのな、もうまじで楽やったわ。しばらくこれ使うわ。
おわり。
0531 3年ゼミ(旅回)の感想
3年ゼミ「視野広げてみようぜ」定期、今回扱ったのは「旅」だった。
講師は、いい意味で、何の仕事されてるのかあまり分からない嶋田さん。
お話の内容は3年ゼミ生にまかせるとして、自分が感じたことを中心に書いていく。
講義前までは、ぼんやりと旅の目的について考えていた。
自分はたびたび旅に行くけど(ダジャレじゃないよ)、何か目的があるのかなあ。
本物を見たいから?
解放感や驚き、スリルなど旅先でしか得られない体験?
それとも、そこから自分の中で磨かれたり積み上げられるもんを目的に?
いやいや、JALマイルをためたり、ステータスとして?
と、色々思いついたけど、どれも当てはまってるしなあ。
ただ、一つ言えるのは、特定の旅を除いて単体の旅の前後で区切っても特に目的の変化はないようにも感じた。
毎回毎回、オルセーでオランピアと出会った時のような衝撃があるわけではなかった。
たぶん旅ってのは読書なんかと一緒で、まったく新しい体験をしていても結局自分の文脈上にありながらで、たまに揺さぶられるくらいのもんよな。
そういう意味で、揺さぶられることが目的の人にとっては旅が手段である必要性はそこまでないんちがうかな。
つーか、それが目的の人にとっては世の中のどんな事象もそれへとつながるし。
もはや「人生=旅」と言っても過言ではないレベル。
とは言え、旅で手っ取り早く何かに感じ入ることができるのも事実。
この講演後の6月2日に鹿児島へふらっ行った時にも、仙厳園から桜島をのぞみながらそんなことを感じた。
やっぱり五感を使う体験はこれからもホットやろうな。
ゲニウス・ロキみたいな第六感的なところも含めて、
AIコミュニティ(仮)第1回の感想
今回は、新しく「文系学生によるAIの勉強会」コミュニティが立ち上がり、それに参加した感想を綴る。
その前に、まずはこのコミュニティはなんぞやってところから。
もともと地方都市の文系学生がAIといったホットな技術面の話に疎いところが背景にあり、そこから色んな課題が出てきていた。
そんで、それを面白く思わんからかいな?長期インターン先の池田さんや久留米大の木下先生が中心となってこのコミュニティができた。
その目指すところは、「まずはAIについて知ろうや」って感じ。
知らんことには視座があがらんもんな。
特にこういったホットな技術の話は「それ勉強する必要ある?」なんて言ってられんくらい「うるせえそんくらいちっとは知っとけ」ってレベルの話やと思うし。
ちなみに、コミュニティにしたのは集団による相互学習効果を見越したもんらしい。
そんで、まずは知るってのが終わったら、何らかの形でアウトプットしてまたインプットしてくって定番の流れ。
そっから先にこのコミュニティが目指すとこも何となくあるんやろうけども、各個人が思う形で還元していけばええんちゃう?くらいになってるのかな?
ともあれ、そういう感じのとこだと自分はいま捉えてる。
ほんで、次はこの回の感想について。
初回ということで、久留米大や中村学園の先生からレクチャーがあった。
内容はAI、ロボットの現状や発展の経緯、問題点の整理といったものだった。
現状と問題点の要約はこんな感じ。
過去に大きな社会変革があってそれによって失業やらはあった。
けど動力革命では新たな職業が生まれたり生産性向上による賃金上昇でなんとかなってた。
問題は情報革命からまた違う傾向になっていて、そんな中でAI・ロボット等の台頭による変革が起こったらどないなるのかなって話。
既に非定型的な仕事もできつつあるAI。もう猶予はねえぜ。
ってのが現状らしい。
で、そっから浮き彫りになってきた問題点はと言うと次のような感じ。
1つ、富の再分配せなあかんよなあ。
2つ、誤解を恐れずに言えば、弱者の雇用の受け皿どうすんの。
3つ、資本主義限界ちがうか。
4つ、あんたらクリエイティブであれクリエイティブであれ言うけどみんながみんなは無理やで。
ってな感じ。
3K労働が弱者の受け皿になってたのに、そこをAIに取って代わられたらどないしようかね。
といった3つ目の問題やら、どうしようもねえ感結構漂ってるなあ。
そんな話を聞いての感想は主に2つある。
1つは、お金もらうために仕事やるって現在の社会から、やりたいことやってたらお金ももらえるって社会に変わるチャンスやないかなあと感じたこと。
もう1つは、AI搭載囲碁のアプリでじいちゃんとコミュニケーション取ったり、Google翻訳で留学生と気軽に話せたり、AI等の技術を活用・共生することで今までにないコミュニティやコミュニケーションが生まれたらええ世界やんなあってこと。
自分はこのコミュニティを使って後者について調べていきたいな。変わるかもしれんけど。
もともと優しい世界や感情の揺れ動き、人間の可能性を美しいと感じてきたから、ぴったりや。
調べ方はどうするかなあ。
AIが考えたもんの出力を人間がする事例やらをまずは探していくかなあ。
アートなんかの「感動」体験について、香りからアプローチするつもりの卒論とからめられたらまたええけどなあ。
まあええや。とりあえず、キングコング始まってるしそっち見よ。
0510 3年ゼミ(哲学振返りの回)の感想
前回の振り返りの機会を設ける、と聞いてこの週も3年ゼミにお邪魔した。
須長さんも見てくださっているらしいので、この回の感想を。
テイクばっかじゃ悪いしね。
まず、前回の補足からは、
「答えがない問いだから答えを出さなくていい、は違う。
その都度ひとつの答えを出していくことで、初めて前にも横にも後ろにも進める」
的なことを仰ってたのが響いたなあ。
今後のAI、課題解決型社会に向けたトレーニングという意味もあるかもやけど、
議論や思考が進んで満足するって意味で、シンプルに取り入れたいと思う考え方だった。
取り入れたい繋がりで、概念をブリコラージュっちゃったら説明を工夫せななあってのも前回に引き続き感じた。
もうこの一文が説明する必要ある内容なのかもやけど。
ともかく、ベン図や平面上の座標軸あたりは簡単に取り入れられて、
説明だけやなく思考や見落としも減りそうやなあ。
「誤解を恐れずに言えば、問いを立てることに加えて、適切な問いを立てることが大事」
的なことを仰ってたのも印象に残った。
ぽこじゃか問いを立てまくるよりも筋のいい問いをひとつ立てる方がいいよね問題、
その理由は単純で、知識同様に問いも文脈、「脱げない鎧」になってしまうからって話やった。
ナンセンスな問いは他人を巻き込まずに自分の頭の中でやってろ、って意味もあるかもやけど。
じゃあいい問いってなんや?って話になるけど、
ひとつの答えが、「不完全なところを補うためのもの」らしい。
でも、これすら答えのひとつに過ぎないのかもと感じた。
例として出てていたのが転職アドバイザーとしてヒアリング、って状況だったからかな。
問いはコミュニケーションとして、本質に迫るものとして、整理するものとして、
思いつかんだけで他にも色んなものがある。
「不完全なところを補うためのもの」なんて漠然としたもんやなくて、もうちょいそれぞれに特化した「いい問い」があるんだろうなあ。
次、「体験・経験を通じて成長できる人ってどんな人?」ワークの感想。
森田先生も仰ってたけど、利己主義の時とは違い、チームで定義を統一するとこから入るのやらができてなかったのが不思議だったなあ。
成長に対してみんな一家言あるからかいな?そうだとしたら、まさに「脱げない鎧」がしっかりと装備されていたんだと思う。
もうひとつ感じた「脱げない鎧」の傾向は、自分が体験や経験をした当事者だと
暗黙的に規定して議論をしていたところ。
でも、これに関しては反証の例を考えている時に自分以外の例も出てきた。
反証を考える際に深化じゃなくて探索型の思考をしたから出てきたのかなあ。
とかなんとかやってると本当にあっという間で、問いに答えを出すのが大事と言われたばっかなのにチームとして出せなかった。
その代わりと言っては何だけど、ありふれた「成長」という概念に対してみんなが問いを立てられたと思う。
成長ってなんだ?
0426 3年ゼミ(哲学回)の感想
3年ゼミで面白いことをやるようなのでお邪魔した。
講師がまさかの須長さんでびっくり。狭いなあ。
およそ3年ぶりの再会なのに覚えていてくださった須長さんにちょっと感動。
「はて、自分は今何に感動したのだろうか?」
と考えていると、講義がはじまった。
そもそもこの講義が成立したきっかけの一つは、
問いを立てるための引っかかりを作れるように
知識としての哲学やなくて哲学の考え方を使ってみてや~って感じだったらしい。
あとは、知識は血肉となり捨てられないからこそ、ついつい連続した文脈上で考えてしまうデメリットである「脱げない鎧」があるんやで、
ってとこから、
囚われてると認知した後の解決策の一つとして、既存の知識や状況に問いを立てて揺さぶり鎧を脱ぎなはれ、
って話もあった。
実学としての哲学や美術史、宗教学といった教養学の位置はここやんなあ。
もちろんそれだけやないと思うけど、「それって意味あんの?」ってなせっかちな人にはこう説明したらよさそうやな。
須長さんのお話のあとは、こちら
利己主義にまつわるあらかじめ出されていた課題を用いてのワーク。
ほんで忘れちゃならんのが、
「主張するよりも、耳を傾けて自分を揺さぶること」
が今回の目標。これがまた難しいんよなあ。
今回のグループの流れは、
感想・認識の共有
↓
100%の利己主義てないんちゃう?状況による条件とかあんのかいな?
↓
状況もあるやろけど、それより利己と利他が入り混じってんのとちがう?
↓
利己と利他の割合と、プラスそこに行動が伴うかで人は価値を見出せるんやない?
↓
利己主義が根底にあったとして、倫理や道徳的にいいとされてる行為に価値を見いだせなくなるわけやないよな
↓
利己主義が根底にあったら、下心のある恋は存在しても無償性が求められる愛って存在しないの??
愛が存在すると思ってたから根底には利己主義以外もあるって思ったんやけど??
↓
愛ってなんだ?
って感じだった。
もっと女子大生と愛について語り合いたかったけど、時間切れ。
ともあれ、問題はそこじゃなくて、これも自分の文脈の延長線上の内容からあまり逸れられた感じがあまりなかったこと。
素直なひねくれ方をしていて、姑みたいに重箱の隅つつける自分としては
今回もいい揺さぶりを提供出来てはいたけど、自分を揺さぶれてたのかはかなり怪しい。
どうやったら自分を揺さぶれるんや。
何が足りない?共感力?1stステップの引っかかりが得られないこと?もっと踏み込む覚悟?
やってくしかないのかもけど、なんともなあ。
それと、もうひとつ自分の傾向として、
「なぜこの人はこういう行動・解釈をしたんやろう?」と感じると、
自分が理解できるまで相手と認識のすり合わせを行い続けて
「それってこういうこと?」「そういうことね、納得できた」
が出てくるまで囚われちゃうのあるよなあ。
これって自分の総合的で即興力ある能力もいるし、相手にもかなり求めるとこあるんよなあ。
ハッキリと主張できたり、曖昧でも言語化したり、安易な答えに飛びつかないこととか。
時間の制約ももちろんあるし、この傾向との付き合い方は思案のしどころやなあ。
そんなこんなで色々考えさせられることや整理できたこと、得るものが多かったゼミだった。
こりゃあ断られなければまた行きたいね。
0426 3年ゼミ課題
お題:
『人間とは何か』の老人の立場は、「どのような行為も、結局は自分のため、自己満足のため、自我の統一性を守るためのものだ」と考える立場で、このような立場は「利己主義」と呼ばれています。利己主義によれば、どれだけ他人のために見える行為(例:火事場で取り残された子を、通りすがりの人が身を挺して助ける)も、結局は自分自身のための行為にすぎません。たとえ本人が、どれだけ他人のためだと思っている行為でも、それは単にそうした善い行為をしない自分が許せないとか、他人を助けるような善い人間としての自己イメージを守りたいとか、好きな相手の悲しむ顔を見たくないとか、結局のところは自分のための行為だからです。
ところで、この利己主義が正しいとすると、われわれの倫理や道徳もそのほとんどが無意味なものになってしまうのではないでしょうか。利己主義を認めてしまってよいのでしょうか。
そこで、次の問いに対して自分なりの考えをまとめておいて下さい。
① 利己主義についてどんな感想を持ちましたか?
② その理由はなんですか?
③ 利己主義は正しいと思いますか?(正しいと思う場合、利己主義を認めてしまうことでわれわれの倫理や道徳がどうなるかも述べて下さい。正しくないと思う場合、なぜ正しくないかの反論を述べて下さい)
1.
利己主義による行動が結果として他者のためになる事もあるのであれば、主義の部分に価値はないと感じた。
あとは、「愛」について思いを巡らせた。
2.
利己主義でも動機はなんであれ他者のために行動はできる事が事例から確認できている。
他者のために行動を起こせるのであれば、動機や過程はさして重要ではない。
さらに結果も伴えば言う事なし。たいへん喜ばしいことである。
また、宗教哲学的にも、信仰と行為義認から説明できる。
利己主義であっても信仰は持てるし、善行という行為も同様。
だから利己主義が動機にあれど、信仰を持っていて善行を行うことにより神の御前で義と認められる。救われるね。
ただこれに問題があるとしたら、行為義認ではなく信仰義認が根底にあるプロテスタントとか一部のクリスチャンにとっては影響あるのかなあ。
いや、信仰に見返りを求めちゃいかんなんてないよなあ。あれ、ルター派はどうだっけ…?
とりあえず、少なくとも愛には無償性求められてるとこあるよな。
じゃあ利己主義からは逃れられないとすると、無償の愛は存在できない(か?)し、まずくないか?←いまここ
3.
利己主義の存在は否定できない。だが、それが最上位の動機付け要因ではない。
最も強い要因は生存本能によるものだ。
人類は他の生物同様、種としての生存に魂を引かれた存在である。
自分のための行動も、まずは自分が一個体として生存しやすい状況へ進むために選択している。
その例外であるように見える他者のために行う行動だが、そちらもやはり大部分は生存本能による行動で片が付く。
例えば働きアリのように、集団を形成する生物の中には他者のために存在している生物が少なくない。
人間もその一種であると考えられる。集団の利益を優先することで人類という種全体として生き残る確率を上げようと無意識に選択する生物なのだ。
ここまで来ても、個人・集団どちらの損得で考えても説明ができない行動は存在する。
だが、これは動物が快不快から行動を選択することから説明できる。
生物は生存に適した状況を快としてそちらへ進むが、これには経験による後天的な教育も大いに影響する。
つまり、帰属する集団の善悪・妥当性の基準を幼児期の共同注意から始まる教育によって人類は学習し、それをもとに快不快を判断して行動しているのだ。
この、快へ引かれ不快を避ける行為は、もとをただせば生存本能によるものだ。
利己主義にもとづき自己実現のために行動していると主張したとしても、結局はすべてが生存本能に従って行動していると言える。
以上のことから、人間は利己主義ではなく生に支配されていると言える。
ともあれ、利己主義でプラスに働く場合はいいけど、戦争のような大きな過ちが起きるのであれば利己主義に則ってでもいいから誰かが止めないとね。
「もし王様が戦争を始めようとしたら、母親が出かけていって断じてとめなければなりません」
アンリ・ルソー