原口顕人の振り返りブログ

本当は馬のこと書きたいけど書けない系ブログ

AIコミュニティ(仮)第1回の感想

 今回は、新しく「文系学生によるAIの勉強会」コミュニティが立ち上がり、それに参加した感想を綴る。

 

 

 その前に、まずはこのコミュニティはなんぞやってところから。

 

 もともと地方都市の文系学生がAIといったホットな技術面の話に疎いところが背景にあり、そこから色んな課題が出てきていた。

そんで、それを面白く思わんからかいな?長期インターン先の池田さんや久留米大の木下先生が中心となってこのコミュニティができた。

 

 その目指すところは、「まずはAIについて知ろうや」って感じ。

知らんことには視座があがらんもんな。

特にこういったホットな技術の話は「それ勉強する必要ある?」なんて言ってられんくらい「うるせえそんくらいちっとは知っとけ」ってレベルの話やと思うし。

ちなみに、コミュニティにしたのは集団による相互学習効果を見越したもんらしい。

 そんで、まずは知るってのが終わったら、何らかの形でアウトプットしてまたインプットしてくって定番の流れ。

 そっから先にこのコミュニティが目指すとこも何となくあるんやろうけども、各個人が思う形で還元していけばええんちゃう?くらいになってるのかな?

 ともあれ、そういう感じのとこだと自分はいま捉えてる。

 

 

 ほんで、次はこの回の感想について。

 

 初回ということで、久留米大や中村学園の先生からレクチャーがあった。

内容はAI、ロボットの現状や発展の経緯、問題点の整理といったものだった。

 

 現状と問題点の要約はこんな感じ。

 過去に大きな社会変革があってそれによって失業やらはあった。

けど動力革命では新たな職業が生まれたり生産性向上による賃金上昇でなんとかなってた。

問題は情報革命からまた違う傾向になっていて、そんな中でAI・ロボット等の台頭による変革が起こったらどないなるのかなって話。

既に非定型的な仕事もできつつあるAI。もう猶予はねえぜ。

ってのが現状らしい。

 

 で、そっから浮き彫りになってきた問題点はと言うと次のような感じ。

1つ、富の再分配せなあかんよなあ。

2つ、誤解を恐れずに言えば、弱者の雇用の受け皿どうすんの。

3つ、資本主義限界ちがうか。

4つ、あんたらクリエイティブであれクリエイティブであれ言うけどみんながみんなは無理やで。

ってな感じ。

 3K労働が弱者の受け皿になってたのに、そこをAIに取って代わられたらどないしようかね。

といった3つ目の問題やら、どうしようもねえ感結構漂ってるなあ。

 

 そんな話を聞いての感想は主に2つある。

1つは、お金もらうために仕事やるって現在の社会から、やりたいことやってたらお金ももらえるって社会に変わるチャンスやないかなあと感じたこと。

もう1つは、AI搭載囲碁のアプリでじいちゃんとコミュニケーション取ったり、Google翻訳で留学生と気軽に話せたり、AI等の技術を活用・共生することで今までにないコミュニティやコミュニケーションが生まれたらええ世界やんなあってこと。

 

 自分はこのコミュニティを使って後者について調べていきたいな。変わるかもしれんけど。

もともと優しい世界や感情の揺れ動き、人間の可能性を美しいと感じてきたから、ぴったりや。

 

調べ方はどうするかなあ。

AIが考えたもんの出力を人間がする事例やらをまずは探していくかなあ。

 

アートなんかの「感動」体験について、香りからアプローチするつもりの卒論とからめられたらまたええけどなあ。

 

まあええや。とりあえず、キングコング始まってるしそっち見よ。

0510 3年ゼミ(哲学振返りの回)の感想

前回の振り返りの機会を設ける、と聞いてこの週も3年ゼミにお邪魔した。

須長さんも見てくださっているらしいので、この回の感想を。

テイクばっかじゃ悪いしね。

 

 

まず、前回の補足からは、

「答えがない問いだから答えを出さなくていい、は違う。

その都度ひとつの答えを出していくことで、初めて前にも横にも後ろにも進める」

的なことを仰ってたのが響いたなあ。

今後のAI、課題解決型社会に向けたトレーニングという意味もあるかもやけど、

議論や思考が進んで満足するって意味で、シンプルに取り入れたいと思う考え方だった。

 

取り入れたい繋がりで、概念をブリコラージュっちゃったら説明を工夫せななあってのも前回に引き続き感じた。

もうこの一文が説明する必要ある内容なのかもやけど。
ともかく、ベン図や平面上の座標軸あたりは簡単に取り入れられて、

説明だけやなく思考や見落としも減りそうやなあ。

 

「誤解を恐れずに言えば、問いを立てることに加えて、適切な問いを立てることが大事」

的なことを仰ってたのも印象に残った。

ぽこじゃか問いを立てまくるよりも筋のいい問いをひとつ立てる方がいいよね問題、

その理由は単純で、知識同様に問いも文脈、「脱げない鎧」になってしまうからって話やった。

ナンセンスな問いは他人を巻き込まずに自分の頭の中でやってろ、って意味もあるかもやけど。

じゃあいい問いってなんや?って話になるけど、

ひとつの答えが、「不完全なところを補うためのもの」らしい。

でも、これすら答えのひとつに過ぎないのかもと感じた。

例として出てていたのが転職アドバイザーとしてヒアリング、って状況だったからかな。

問いはコミュニケーションとして、本質に迫るものとして、整理するものとして、

思いつかんだけで他にも色んなものがある。

「不完全なところを補うためのもの」なんて漠然としたもんやなくて、もうちょいそれぞれに特化した「いい問い」があるんだろうなあ。

 

 

次、「体験・経験を通じて成長できる人ってどんな人?」ワークの感想。

 

森田先生も仰ってたけど、利己主義の時とは違い、チームで定義を統一するとこから入るのやらができてなかったのが不思議だったなあ。

成長に対してみんな一家言あるからかいな?そうだとしたら、まさに「脱げない鎧」がしっかりと装備されていたんだと思う。

 

もうひとつ感じた「脱げない鎧」の傾向は、自分が体験や経験をした当事者だと

暗黙的に規定して議論をしていたところ。

でも、これに関しては反証の例を考えている時に自分以外の例も出てきた。

反証を考える際に深化じゃなくて探索型の思考をしたから出てきたのかなあ。

 

とかなんとかやってると本当にあっという間で、問いに答えを出すのが大事と言われたばっかなのにチームとして出せなかった。

その代わりと言っては何だけど、ありふれた「成長」という概念に対してみんなが問いを立てられたと思う。

成長ってなんだ?

0426 3年ゼミ(哲学回)の感想

3年ゼミで面白いことをやるようなのでお邪魔した。
講師がまさかの須長さんでびっくり。狭いなあ。

およそ3年ぶりの再会なのに覚えていてくださった須長さんにちょっと感動。

「はて、自分は今何に感動したのだろうか?」

と考えていると、講義がはじまった。

 

そもそもこの講義が成立したきっかけの一つは、

問いを立てるための引っかかりを作れるように

知識としての哲学やなくて哲学の考え方を使ってみてや~って感じだったらしい。

あとは、知識は血肉となり捨てられないからこそ、ついつい連続した文脈上で考えてしまうデメリットである「脱げない鎧」があるんやで、

ってとこから、

囚われてると認知した後の解決策の一つとして、既存の知識や状況に問いを立てて揺さぶり鎧を脱ぎなはれ、

って話もあった。

実学としての哲学や美術史、宗教学といった教養学の位置はここやんなあ。

もちろんそれだけやないと思うけど、「それって意味あんの?」ってなせっかちな人にはこう説明したらよさそうやな。

 

須長さんのお話のあとは、こちら

cheval.hatenablog.com

利己主義にまつわるあらかじめ出されていた課題を用いてのワーク。

ほんで忘れちゃならんのが、

「主張するよりも、耳を傾けて自分を揺さぶること」

が今回の目標。これがまた難しいんよなあ。

 

今回のグループの流れは、

 

感想・認識の共有

100%の利己主義てないんちゃう?状況による条件とかあんのかいな?

状況もあるやろけど、それより利己と利他が入り混じってんのとちがう?

利己と利他の割合と、プラスそこに行動が伴うかで人は価値を見出せるんやない?

利己主義が根底にあったとして、倫理や道徳的にいいとされてる行為に価値を見いだせなくなるわけやないよな

利己主義が根底にあったら、下心のある恋は存在しても無償性が求められる愛って存在しないの??

愛が存在すると思ってたから根底には利己主義以外もあるって思ったんやけど??

愛ってなんだ?

 

って感じだった。

もっと女子大生と愛について語り合いたかったけど、時間切れ。

ともあれ、問題はそこじゃなくて、これも自分の文脈の延長線上の内容からあまり逸れられた感じがあまりなかったこと。

 

素直なひねくれ方をしていて、姑みたいに重箱の隅つつける自分としては

今回もいい揺さぶりを提供出来てはいたけど、自分を揺さぶれてたのかはかなり怪しい。

どうやったら自分を揺さぶれるんや。

何が足りない?共感力?1stステップの引っかかりが得られないこと?もっと踏み込む覚悟?

やってくしかないのかもけど、なんともなあ。

 

それと、もうひとつ自分の傾向として、

「なぜこの人はこういう行動・解釈をしたんやろう?」と感じると、

自分が理解できるまで相手と認識のすり合わせを行い続けて

「それってこういうこと?」「そういうことね、納得できた」

が出てくるまで囚われちゃうのあるよなあ。

これって自分の総合的で即興力ある能力もいるし、相手にもかなり求めるとこあるんよなあ。

ハッキリと主張できたり、曖昧でも言語化したり、安易な答えに飛びつかないこととか。

時間の制約ももちろんあるし、この傾向との付き合い方は思案のしどころやなあ。

 

そんなこんなで色々考えさせられることや整理できたこと、得るものが多かったゼミだった。

こりゃあ断られなければまた行きたいね。

0426 3年ゼミ課題

お題:

 『人間とは何か』の老人の立場は、「どのような行為も、結局は自分のため、自己満足のため、自我の統一性を守るためのものだ」と考える立場で、このような立場は「利己主義」と呼ばれています。利己主義によれば、どれだけ他人のために見える行為(例:火事場で取り残された子を、通りすがりの人が身を挺して助ける)も、結局は自分自身のための行為にすぎません。たとえ本人が、どれだけ他人のためだと思っている行為でも、それは単にそうした善い行為をしない自分が許せないとか、他人を助けるような善い人間としての自己イメージを守りたいとか、好きな相手の悲しむ顔を見たくないとか、結局のところは自分のための行為だからです。

ところで、この利己主義が正しいとすると、われわれの倫理や道徳もそのほとんどが無意味なものになってしまうのではないでしょうか。利己主義を認めてしまってよいのでしょうか。

そこで、次の問いに対して自分なりの考えをまとめておいて下さい。

利己主義についてどんな感想を持ちましたか?

その理由はなんですか?

利己主義は正しいと思いますか?(正しいと思う場合、利己主義を認めてしまうことでわれわれの倫理や道徳がどうなるかも述べて下さい。正しくないと思う場合、なぜ正しくないかの反論を述べて下さい)

 

 

1.

 利己主義による行動が結果として他者のためになる事もあるのであれば、主義の部分に価値はないと感じた。

あとは、「愛」について思いを巡らせた。

 

2.

 利己主義でも動機はなんであれ他者のために行動はできる事が事例から確認できている。

他者のために行動を起こせるのであれば、動機や過程はさして重要ではない。

さらに結果も伴えば言う事なし。たいへん喜ばしいことである。

 また、宗教哲学的にも、信仰と行為義認から説明できる。

利己主義であっても信仰は持てるし、善行という行為も同様。

だから利己主義が動機にあれど、信仰を持っていて善行を行うことにより神の御前で義と認められる。救われるね。

 ただこれに問題があるとしたら、行為義認ではなく信仰義認が根底にあるプロテスタントとか一部のクリスチャンにとっては影響あるのかなあ。

いや、信仰に見返りを求めちゃいかんなんてないよなあ。あれ、ルター派はどうだっけ…?

とりあえず、少なくとも愛には無償性求められてるとこあるよな。

じゃあ利己主義からは逃れられないとすると、無償の愛は存在できない(か?)し、まずくないか?←いまここ

 

3.

 利己主義の存在は否定できない。だが、それが最上位の動機付け要因ではない。

最も強い要因は生存本能によるものだ。

人類は他の生物同様、種としての生存に魂を引かれた存在である。

自分のための行動も、まずは自分が一個体として生存しやすい状況へ進むために選択している。

 その例外であるように見える他者のために行う行動だが、そちらもやはり大部分は生存本能による行動で片が付く。

例えば働きアリのように、集団を形成する生物の中には他者のために存在している生物が少なくない。

人間もその一種であると考えられる。集団の利益を優先することで人類という種全体として生き残る確率を上げようと無意識に選択する生物なのだ。

 ここまで来ても、個人・集団どちらの損得で考えても説明ができない行動は存在する。

だが、これは動物が快不快から行動を選択することから説明できる。

生物は生存に適した状況を快としてそちらへ進むが、これには経験による後天的な教育も大いに影響する。

つまり、帰属する集団の善悪・妥当性の基準を幼児期の共同注意から始まる教育によって人類は学習し、それをもとに快不快を判断して行動しているのだ。

この、快へ引かれ不快を避ける行為は、もとをただせば生存本能によるものだ。

利己主義にもとづき自己実現のために行動していると主張したとしても、結局はすべてが生存本能に従って行動していると言える。

 以上のことから、人間は利己主義ではなく生に支配されていると言える。

 

 

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アンリ・ルソー 『戦争』

 ともあれ、利己主義でプラスに働く場合はいいけど、戦争のような大きな過ちが起きるのであれば利己主義に則ってでもいいから誰かが止めないとね。

「もし王様が戦争を始めようとしたら、母親が出かけていって断じてとめなければなりません」
アンリ・ルソー

 

プロジェクトマネジメント解説等の感想

 4月5日のKATインターンでは、木下先生のお話(主にプロジェクトマネジメントの話やら)や、あべくんの次なる野望紹介やらがあった。

制作したHPの報酬分配もあった。今回は4万1千円ゲット。

 

 

 まずは木下先生のお話の感想から。

 ソフトウェア開発でもっとも重要(付加価値で?達成で?総合的にってことかいな)なんは、要件定義って話は納得感あったなあ。

SIerやらの企業見てると、コーダーなんざわざわざ募集してねえ感あったもんな。

コーダーも後々プロフェッショナル枠としてあるにはあるけど、くらいの扱い。

おれ的には、要件定義と言うか、より良い未来像を探して共有し実現可能なとこ模索していくことやりたかったから

この評価の感じでいいと思う。変わんないでね。

 

ガントチャートPMBOKの知識管理体系は、PMや振り返り、知見の蓄積、共有による他者の成長に対するひとつのアプローチとして、シンプルにやってみてええなあと感じた。

こういうのもアウトプットのひとつやもんなあ。

PMBOKの方は特に、体系として出来上がってる分他者への説得力が増す感ある。

蓄積や分析もしやすそうだし。

なんかこういう、まとまってる体系だからこそのメリットが感じられると「それじゃあこの巨人の肩に乗ったろうか」ってなるな。

 

PMのうち、リスクマネジメントとクライシスマネジメントは正直まったく意識できてなかったなあ。

手戻り発生のリスクとかもそうやし。ここはもうちょい過去のやつをその観点から振り返っとかなあかんなあ。

お話にもあったけど、「思い込み」が一番怖いやんな。だから「確認」せなって話で。

ただ、たぶんやけどこの問題がなくならん原因は、その「思い込み」の対象を大体は自覚できてないってことやんね。

それを事前に洗い出せる意味でもPMの各種ツールは有効なわけで。

たまたま今日説明会に行ったNTTデータ九州さんで聞いた話やと、過去の知見から独自のPMメソッドが確立されとって、

「この規模のプロジェクトでこの工程やとこんくらいバグが出とかなあかんとか予測してマネジメントしてったり、わりと細かく分けてある各工程ごとにそれぞれ違うチェックリスト的なの設けてマニュアル化して対応しながらPM管理してる」的なことやった。

「ウチの強みはこのPMメソッドを確立できとるとこ」って断言してたし、ほんまにそうなんやろな。

 

あとあれや。「経験からしか学べない」は大間違いやんな。

だって、こうやってしっかりまとめられてる話はほんまに聞いただけで学べるもんな。

ちょっと目が曇りそうになってた、あぶねえあぶねえ。

 

成功する人の条件で、もっちゃんが挙げてた「計画したことを実行できる人」ってのは、まさにまさにって感じやった。

色々重要な要素はあるだろうけど、シンプルにそれよ。

 

 

 そんな感じの木下先生のお話の感想。

 

 次はあべくん。

と思ったけど、これは金になりそうなにおいがぷんぷんしたから実際に作るまで言わない方がええかな。

やさしい世界を目指すあべくんの思いを汚した感じしないでもないけど、実現や運営には必要なんや……。

 

あとあれやあれ。

なぜかレイヤー効果って言ってたけどシグナル効果だったわ。ごめんね。

どっから来たよおまえ。

KATインターン「とりあえず発表した」回の感想

 昨日は久しぶりに集まってやるKATのインターンがあった。

この日は直後に説明会が入っていて、30分しか居られない旨を事前に伝えると

 

「30分だけならなんか話して帰ったら?」

 

てな流れになったので、インターンで学んだことを整理、共有するために発表した。

 

当日のスライドはこんな感じのやつ。

 

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あと、今回は一人でスライドを作るように釘を刺されていたこともあり、

どうせならと全スライドを絵画+ワンフレーズだけという趣味全開の構成にした。

マッチする絵画を検索するのに時間かかりすぎるからもうやんないだろうけど。

 

今回意識したことは、聴衆がKATインターンの後輩たちということもあって、

KATインターンの根っこの一つだとおれは思ってる

「実社会とのつながりに気づくことによって初めて仕事が成立する」

ってとこを意識しながら構成考えていったなあ。

 

ほんで、なおかつ、「ここのインターンでしか学べません!」

なんて内容だけのキモい流れにはしたくなかったのもあったなあ。

事実、おれは今月頭にフラれたことから得た学びがとても大きかったし。

 

ただ、日常で学んだことやインターンでしか学べないようなことを文字に起こして保存しとくと、別モンだと思ってた要素がつながってまた整理できたりもする。

だから色んなとこに顔突っ込んでそこから感じたことや学びをアウトプットしとくとええんやろなあ。

 

「引き出し増えるってこと?」

ってなるかもやけど、それがノウハウの蓄積による作業の応用力強化だとすると、それとはまたちょっと違う感じ。

 

 

 

 

発表後のフィードバックでは、

 

「今後ビジネスにアート要素取り込んでいかな的な流れあるし、

アートへの関心は持ち続けたらええんちゃう」

ってなものがあったなあ。

クェスじゃないけど、「私、全部知っていたな」感あった。時代が追い付いてきたな。

 

 

他にも、「やってきたことを言えるのええなあ。しかも理論になってるやん」

的なコメントもいただいた。

これに関しては、一回生の時に「とりあえず行動する」を重点的にやってきた自分から

「時々振り返ってみる」の割合を少し増やしていったからやと思うなあ。

その「振り返ってみる」の精度を上げられるのが過去のおれのアウトプットなんやけど。

 

ってな感じの「とりあえず発表した」回だった。

 

 

「スライドの絵画どうやって探してたの?」

って質問もあったから、当時の履歴引っ張ってきた。

一部はスライドで直接検索かけたりとかもあるから抜けあるけど……、

思考の変遷が伝わればええなあ、どうやろか。

 

使用した絵画は順に、

グイド・レーニ 『ナザレのヨセフ』

イワン・クラムスコイ 『荒野(あらの)のキリスト』

ピーテル・ラストマン 『ヨナとクジラ』

ムンク 『別離』

カラヴァッジョ 『いかさま師』

W.H.マーゲットソン 『善きサマリア人

歌川国貞 『今様見立士農工商 職人』

ミケランジェロ 『最後の審判

エリック・ギル 『ステージ上の俳優』

 

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就活じゃなくてエッシャー展の感想

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最近は部活と就活の繰り返しで同じ刺激ばっかりだったから、

かねてより行きたかった「ミラクル エッシャー展」に行ってきた。

行ってみるとこれがなかなかいいもんで、認識したものが別のものへと認識が移り変わる間のラグを楽しめたひとときだった。

そんなエッシャー展の感想を今回は書いていく。

 

 

まずはエッシャーの軽い説明から。

エッシャーは「だまし絵」で有名な版画家で、こんな作品を残してる。

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Day and Night

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Waterfall

『Day and Night』は彼の特徴である「正則分割」と「変容」が見られる代表作品。

正則分割」とは、もともとスペインのアルハンブラのびっしりと敷き詰められたタイルから着想を得たものらしく、それを彼なりに発展させたもの。

さらにそこから、例えば空間に融け合うようにだったり姿が変容していったりする表現へ発展させていったんやって。

 

『Waterfall』の方は「循環」や「正多面体」が見られる。

滝から流れ落ちた水が水路を通りまた滝にたどり着く、一見自然だけど現実にはありえない構造のこの作品も彼の代表作品やねえ。

地味に彼が好きな正多面体が屋根の上に登場していたりもする。

 

そんな彼の展示会だったけど、彼は決して奇をてらうためだけにこういった作品を書いていたわけではなさそうだったなあ。

 

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Rome and the Griffin of Borghese

この『Rome』なんか、前景中景後景どこを見ても手前の聖獣ボルゲーゼが焦点の隣にぼやけて入り込んでくるから、本当にその場に居るような臨場感あふれる風景画になっていると思うし

 

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The Second Day of the Creation

この、天地創造の一場面である『The Second Day of the Creation』もそう。

実際に近くで見たらより分かるけど、白と黒で表現しなきゃいけない版画で雲の描き分け(個人的に上部右側の雲の表現の仕方が好きだったなあ。なんかワクワクするもくもく感あるねんて)や、

波しぶきとか力強くうねる波の表現も奇をてらったものではないとこがあった。

 

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Eye

これなんか色々想像働いたなあ。

銅版画のメゾチントだったと思うけど、ちっさい傷引っかけてってこんなん作るって技術的にやべえよなあ~とか、

 

鏡見ながらやったんかいな、瞳の中にエッシャーが映り込んでるやん・・・と思ったら骸骨やし。エッシャー自身ではあると思うんだけど、なんでその姿を選んだんだろうかなあ。

1946年作だし、WWⅡのこともあるんかいな~とか、


他の、特に後期のエッシャーの絵からは感じ取れない、気持ちってか芸術家っぽさ?がにじみ出てるように感じたんだよなあ。

とにかく、「自分は芸術家ではなく版画家」と(たしか)言ってたエッシャーの作品では異質だった。

 

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Reptiles

『Reptiles』。

これは単純にとことこよじよじ鼻息しゅぽーのトカゲがかわいかったから好き。

 

 

 

そんな感じのエッシャー展だった。

正直彼については「だまし絵」としか印象になかったから、彼を知る意味でも今回はいい機会になったなあ。

想像を巡らすことでリフレッシュ以上のものも得られたと思うし、やっぱりこういうのは定期的に行きたいなあ。